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kiviak-minamiの日記

少しずつ、ことばを紡ぎだす訓練になればなあ。

別府温泉に来た

備忘録に、メモ書き。

 

LCCに初めて乗る。飛行機自体は7年ぶりくらい? イメージよりも遥かに快適。座席もそんなに狭さを感じない。もちろん非格安キャリアはますます快適化しているのだろうが、深夜バスよりはるかに良いし、新幹線より時間がかからない。これは、あり。大阪に行きたい時は、関空の便が悪いので、深夜バスに軍配があがるかもしれないが。

 

成田空港に向かうとき、「霞立つ」ということばの意味を初めて本当に知った。季節感のぶっ壊れた北海道暮らしでも、それ以降の街中暮らしでも、「霞」はわからないままだった。千葉の田舎の田園風景、遠くの山々が、朝日に照らされてゆらめく様は確かに春を感じさせた。飛行機がたまたま窓際の席で、離陸時に眼科の房総を眺めていたら、山々、川、田畑が真珠色に見え、人工物はことごとくみがき立ての銀のように朝日を受けて光っており、見とれている間に眠ってしまった。いずれしっかりと描きたい風景だった。

 

温泉と文学トークショー。久方ぶりに、大阪と京都の言葉を聞いた。一流の作家さんたちにとっても、文章を書くことは並一通りでない仕事なのだと、書けなくても何とかして書くものなのだと、言われてみれば当たり前のことだが、ふとそんな言葉を耳にして、少しだけ前を向こう、という気分になった。藤野可織さんの話を実際に伺うのは初めてだったが、今まで読んだ著作や、今回のイベント向けの選書以上に、並外れた感性の持ち主でいらっしゃるのだなあと痛感した。ファンになってしまいそう。

 

大阪や京都のことばが、とみにあたたかく感じられた。

 

温泉は、とにかくきもちいい。明日は地獄めぐりにいく。

卵が先か鶏が先か

 海外にいる弟がいる。英語を学びたいという思いが嵩じて、ついには日本を飛び出し海外であれやこれややっている。そんな弟から、少し前に連絡があった。

 海外生活も大分板についてきた、と彼は言う。IELTSの試験を受けたら平均点は約7点。永住権の獲得も近い。今だからこそ、足掛け数年の経験をもとに、英語学習者に向けたblogを書きたいと思う。しかし長らく日本語の文章にも触れていないし、正直書き方がわかっているわけでもない。どうしたらよいだろう。

 とりあえず書いてみればよい。そう言ったところ、弟はしばらく経って「前置き」の部分を送ってきた。カタカナを使いたくない、全てをきっちり「純日本語」で書きたい、するとついつい漢字で溢れてしまう。本人の言う通り、「これから」の「これ」まできれいに漢字に変換されていて、率直に言うと確かに読みづらいね、という話になった。

 彼にいくつかの種類の書き方を勧めてみると、ちょっと試してみると言い、しばらく経ってからリテイク版が送られてきた。初めのものに比べたら幾分かこなれているけれど、やはり重たさと硬さは、本質的に変わっていなかった。もう一度書き直してみようか、ということになったけれど、二度目のリテイクはまだ送られてこない。

 たぶん彼の中には、柔らかい言い回しや軽い文章の組み立て方のストックがないのだろう。本人にとってのモデルがないから書き出せないし、提示された書き方のサンプルもしっくりこない(しっくりくるものが無いのだから致し方ない)。

 しかし、二度目、三度目と、繰り返し直していかないことには、きっといつまでも出来上がりやしないよ。と、わたしは言った。真似したいと思えるもの、エセーでも、それこそブログでもいいから、探してみたらどうだろう。吐くために食い、食うために吐く、そのくらいでないと言葉がうまくならないのは、君だって知っているだろう。

 そうだね、と弟は曖昧に首肯して、今のところはそれきりになっている。今頃彼は、海の向こうで何か読むべきものを見繕っているだろうか。どこかでしっくりくる言葉と出会って、少しずつ借りてくることができれば、彼の言葉も少しずつこなれてくるのではないかと思う。

 しかし今となっては、しくじった、とんでもない回り道を勧めてしまった、と思っている。いたたまれないほど書きたいことがあるなら、下手くそでも硬くてもいいから、とにかくたくさん書いてごらんよ、読みやすさなんてどうでもいいよ。そう言ってやれば済んだ話ではないか。そしてきっとその方が、はるかにいいことになっていたのではないか。

 ろくな兄でいた試しがないが、今度のは極め付けに悪い。

日本酒のこと

 ゴールデンウィークは大半を関西で過ごしたが、休日の最後の一日は三軒茶屋「赤鬼」へ行き、日本酒をいただいてきた。今の住まいから三軒茶屋はやや遠く、いかに名店とはいえ一人では中々行かれない。数年前からお世話になっている日本酒のお好きな先生と、同行を数名募って行くのが常である。

 先生と日本酒を飲むようになったのは、確か二年前のホーム・パーティにお招き頂いた時だったと思う。「十四代が好き」というリクエストに対して、もちろんわたしの伝手では定価入手は難しかったものだから、別のものをそれなりに見繕って持って行った。それ以来、何かと声をかけていただくたび、日本酒のオススメを紹介するようになった。

 

  「赤鬼」では、「十四代」プライベートストックからはじまり、めいめいに好きな酒を頼みつつ、気になるものはお互いに味見させてもらうような飲み方をする。お互いに味見をしあうわけなので、それぞれの舌にかないつつ、めいめいの好みからはさほど外れない、そういったものを選んで注文する。

 ここのところ、正直なところ、軽やかでフルーティな香りが売りの日本酒で、自信を持って推せるもののストックが尽きつつあった。鳳凰美田、くどき上手、赤鬼には置いてないものだと、三十六人衆、東洋美人、、そういうタイプのもの。

 わたしは、もう少し他の日本酒を頼むこともしばしばある。「赤鬼」だと、手取川、雨後の月、他の店だったら、銀盤、秋鹿……どれもいわゆる「十四代」的味わいと違う味わいなので、やはり、同行の方々の好みにそぐわないことが多い。「米の味わいが強い」「パンチが効いている」そんな評価を聞いた時、わたしはその酒の選択を、失敗した、と思う。少なくとも、ともに楽しむにしては。一人で飲むためのものではないのだから。

 

 わたしにとって問題なのは、自分の舌にはその酒が美味しいと思われることでもないし、同行の方々にとってその酒が美味しく感じられないことでもない。美味しいと思われるものが人によって異なるのは当たり前のことだろう。

 わたしにとって、例えば手取川十四代は、全く違う酒だ。しかし、大きく違うものとは思われない。上品に仕上がった吟醸酒で、雑味のなく、軽やかでフルーティな吟醸香が楽しめ、味わいの深みもある……。それでも、たとえばわたしの先生にとって、両者は似て非なるものどころか、似ても似つかないものなのだった。

 わたしにはその似て非なる違いが本質的だと感じとることができていない。おそらく違うことは推測しうる。ブラインドで試したところで、まず外さないだろう。それでも私はきっと、両者の差がほんとうにはわかっていないのだ。だからこそ、他の方の好みを承知していながら、それに準じないものを勧めて(というよりは、試してみるよう提案して)しまうのだろうかな、と思う。

 わたしは先生方の本質的に好む味の要素を受け取れていないのだろうか。それとも、先生方の好みに根底から反する味の要素をつかみ損ねているのだろうか。何かは知らないが、そこに何らかのはっきりとした違いがあるのだろう、そのはずなのに、それが言葉にならない、区別がままならない、、というのが、どこか心に引っかかっている。

 

 今日もまた日本酒が美味い。純米ドラゴン。

 

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表題のごとく相成りました。


自分の中には特別な言葉が内在している訳ではない、とは言われるまでもなく。しかし、その言葉こそ、自分にとっての枷だったのではないかと、先生や先輩方から仰せつかったのがつい一時間ほど前の話。


自分にしか書けないものがある、なんて傲慢なことは今はまだ思えませんが、とりあえず、この自分が今書けるものを、少しずつ綴っていけたらと思います。